すべては一つの心から
元暁は、あらゆる現象を一つの心(一心)の立場から説明しました。『金剛三昧経論』の大意は、「一心の源は有と無を離れてひとり清らかである」という言葉で始まります。 記録 · 要旨
『금강삼매경론』 권상 대의(대정장 34권 No.1730, 961a) deerpark.app · 우리역사넷 「원효 사상」(일심) · 김태수, 「원효의 부정방식에 나타난 불교 논리학적 특성」 『인문논총』 47(경남대, 2018)
想像で描いた姿617年〜686年
心を見た元暁
錯覚だとしても、それを見抜くのもまた心だ。第3局 · 再構成 · 『大乗起信論』覚・不覚 · 元暁の疏
元暁(ウォニョ)は、617年に押梁郡(今の慶尚北道慶山)で生まれた新羅の僧です。 記録
義湘(ウィサン)とともに二度、唐への留学を試みましたが、行かずに新羅にとどまりました。 記録
『大乗起信論疏』『金剛三昧経論』『十門和諍論』などを残し、互いに異なる仏教の理論を和解させようとする和諍(ファジェン)思想で知られています。 記録
『三国遺事』は、彼が瑤石(ヨソク)公主との間に薛聡(ソル・チョン)をもうけたのち、自ら小姓居士と名乗り、歌い踊りながら村々を巡ったと伝えています。 記録 · 説話
高麗の粛宗(スクチョン)は1101年、彼に大聖和諍国師の号を追贈しました。 記録
出典は韓国語の原文のまま掲載しています。
真平王(チンピョンワン)39年、押梁郡の南の仏地村(今の慶尚北道慶山)で生まれました。俗姓は薛氏で、幼名は誓幢でした。 記録
『삼국유사』 권4 의해 「원효불기」("押梁郡南 … 佛地村", "眞平王三十九年 大業十三年丁丑", "俗姓薛氏", "小名誓幢") ウィキソース · 국사편찬위 한국사DB 韓国史DB · 한국민족문화대백과 「원효」 韓国民族文化大百科
義湘とともに陸路で唐への留学の旅に出ましたが、遼東で高句麗の国境守備兵に間者と疑われ、数十日閉じ込められたのち戻りました。『三国遺事』はこの出来事の年を別に記しておらず、650年は『韓国民族文化大百科事典』などが定めた年です。 記録
『삼국유사』 권4 「의상전교」("遂與元曉道出遼東 邊戍邏之爲諜者 囚閉者累旬") 국편 한국사DB 및 주석 228(『삼국유사』의 「영휘 초」는 의상이 당 사신의 배로 들어간 때) 韓国史DB · 우리역사넷 「의상」 ウリ歴史ネット · 한국민족문화대백과 「원효」(650년 첫 시도 실패)
『三国遺事』は、武烈王の時代に元暁が瑤石宮の寡婦の公主と縁を結び、薛聡をもうけたと伝えています。『三国遺事』が郷伝(郷土の言い伝え)から書き写した話です。 記録 · 説話
『삼국유사』 「원효불기」("唯鄉傳所記有一二段異事", "時太宗聞之", "瑤石宮 … 寡公主", "生薛聰") · 한국민족문화대백과 「원효」("태종무열왕 대(654~661)에 요석궁의 과부 공주를 만나")
義湘とともに海路で再び唐へ向かう途中、元暁は新羅へ引き返し、義湘はひとり唐へ渡りました。『宋高僧伝』(988)は、このとき二人が大雨に遭って道端の土の洞穴で眠ったところ、朝になって見ると古い墓のそばであり、翌晩その墓に泊まったときに鬼が現れて悩ませたと伝えています。元暁はこの出来事で「三界はただ心であり、万法はただ識である」と悟ったと記しています。 記録 · 説話
『송고승전』(988) 권4 「당신라국의상전」("遭其苦雨 遂依道旁土龕間隱身", "明旦相視 乃古墳骸骨旁也", "又寄埏甓之中 夜之未央 俄有鬼物為怪", "三界唯心 萬法唯識", "我不入唐 却携囊返國", "湘乃隻影孤征") shidianguji.com · 우리역사넷 「의상」(661년 두 번째 유학길) · 『삼국유사』 「의상전교」 국편 주석 228(부석본비 661년)
戒を失って薛聡をもうけたのち、俗人の服に着替え、自ら小姓居士と名乗りました。 記録
『삼국사기』 권46 열전 설총("얼마 후 환속하여 스스로 소성거사라고 불렀다") 韓国史DB · 『삼국유사』 「원효불기」("旣失戒生聰 已後易俗服 自號小姓居士")
芸人たちが使っていた大きなひょうたんを手に入れ、『華厳経』の一節から取って「無碍」と名づけ、歌をつくりました。これを手に、数多くの村を歌い踊りながら巡ったといいます。 記録 · 説話
『삼국유사』 「원효불기」("偶得優人舞弄大瓠 … 以華嚴經一切無礙人一道出生死 命名曰無礙 仍作歌流于世 … 千村萬落且歌且舞") · 우리역사넷 「원효」 ウリ歴史ネット (무애가)
『大乗起信論疏』『金剛三昧経論』『十門和諍論』などを書きました。彼が書いた書物の数は、資料によって70余部150巻あまり、90種近く200余巻、100余部240余巻以上などと、異なって数えられています。 論争中
한국민족문화대백과 「원효」("70여 부 150권 남짓") · 우리역사넷 「원효 사상」(대표 저술 세 권, "약 90종 200여 권") ウリ歴史ネット · 디지털경산문화대전 「원효」(GC08100658) grandculture.net · 전통문화포털(kculture.or.kr) bbIdx=8380
垂拱2年3月30日(当時の暦の日付)、穴寺で70歳で入寂しました。 記録
고선사 서당화상비("수공 2년(686) 3월 30일 혈사에서 마치니, 나이 70이었다") 국편 한국사DB 韓国史DB · 한국민족문화대백과 「원효」("686년 3월 30일 혈사(穴寺)에서 70세를 일기로 입적") · 『삼국유사』 「원효불기」(穴寺)
孫の薛仲業(ソル・ジュンオプ)が中心となり、金彦昇(キム・オンスン)の後援を得て、元暁の生涯を刻んだ高仙寺誓幢和上碑を建てました。 記録
국편 한국사DB 「고선사 서당화상비」(연대 애장왕대 800~808) · 국가유산 지식이음 「경주 고선사 서당화상탑비」 portal.nrich.go.kr
高麗の粛宗が詔を下して元暁に大聖和諍国師の号を追贈し、彼が住んだ場所に碑を建てさせました。僧の義天(ウィチョン)の建議がきっかけでした。 記録
『고려사』 권11 세가 숙종 6년 8월 계사("追贈元曉大聖和靜國師") 韓国史DB · 국편 『삼국유사』 주석(1101년 숙종 6 8월 조서로 화쟁국사비 건립) 韓国史DB · 한국민족문화대백과 「원효」(의천이 숙종에게 건의)
元暁は、あらゆる現象を一つの心(一心)の立場から説明しました。『金剛三昧経論』の大意は、「一心の源は有と無を離れてひとり清らかである」という言葉で始まります。 記録 · 要旨
『금강삼매경론』 권상 대의(대정장 34권 No.1730, 961a) deerpark.app · 우리역사넷 「원효 사상」(일심) · 김태수, 「원효의 부정방식에 나타난 불교 논리학적 특성」 『인문논총』 47(경남대, 2018)
互いに争う仏教の理論のうち一つだけを選ぶのではなく、それぞれの見解の意味を認めつつ、その限界もあわせて見えるようにして和解させようとしました。この考えをまとめた書物が『十門和諍論』です。 解釈 · 韓国民族文化大百科事典・ウリ歴史ネット
한국민족문화대백과 「화쟁사상」 韓国民族文化大百科 · 우리역사넷 「원효 사상」("다양한 불교 이론 사이의 다툼을 화해시키는")
『宋高僧伝』は、土の洞穴と思って眠った最初の夜は安らかだったのに、墓と知って泊まった翌晩には鬼に悩まされた元暁が、「心が起こるがゆえにさまざまな法が起こり、心が滅するがゆえに洞穴と墓は二つではない」と悟ったと記しています。 記録 · 要旨
『송고승전』(988) 권4 「의상전」("心生故種種法生 心滅故龕墳不二 … 三界唯心 萬法唯識") · 정병조, 『Master Wonhyo: An Overview of His Life and Teachings』(2010) IV장
彼は『華厳経』の「一切に碍げなき人は、一道にて生死を出づ」という一節から「無碍」という名を取りました。『三国遺事』は、彼の歌と踊りのおかげで貧しい家の人々までが仏の名を知り、「南無」と唱えるようになったと伝えています。 記録 · 説話
『삼국유사』 「원효불기」("一切無礙人一道出生死", "使桑樞瓮牖玃猴之輩 皆識佛陀之號 咸作南無之稱") · 우리역사넷 「원효」(무애가로 백성에게 가르침)
そもそも一心の源は有と無を離れてひとり清らかであり、三空の海は真と俗を溶け合わせて深く静かである。
夫一心之源 離有無而獨淨 三空之海 融眞俗而湛然
破ることはないが破らないことはなく、立てることはないが立てないことはない。理なき至理であり、然らざる大いなる然りと言うべきである。
無破而無不破 無立而無不立 可謂無理之至理 不然之大然矣
三界はただ心であり、万法はただ識である。
三界唯心 萬法唯識
元暁が留学を夢見ていた頃、唐にはインドから戻った玄奘がおり、元暁と義湘はその門下で学ぼうとしました。元暁の生涯を伝える記録は、彼の死から100年余り後に建てられた誓幢和上碑(800〜808年頃)、宋の賛寧の『宋高僧伝』(988)、高麗の一然(イリョン)(1206〜1289)の『三国遺事』などです。
彼の『大乗起信論疏』は中国と日本の仏教界で「海東疏」と呼ばれ、中国華厳宗の法蔵や宗密もこの書物を引用しました。高麗中期に義天が彼を再び高く評価し、粛宗が1101年に大聖和諍国師の号を追贈しました。
誤解元暁が髑髏にたまった水を飲んで悟ったという話は、元暁と同時代の記録である。
事実『宋高僧伝』(988)には、雨を避けて眠った土の洞穴が朝になって見ると古い墓で、翌晩その墓で鬼に悩まされたという話が出てきますが、水を飲んだという箇所はありません。それより前の延寿の『宗鏡録』(961)には、元暁が墓の中で喉が渇いて水をすくって飲んだところ、翌日見ると死体の腐った水だったという話が載っています。髑髏にたまった水という箇所は、北宋の恵洪の『林間録』(1107年序)に出てきます。いずれも元暁の死から270年以上たった中国の文献なので、髑髏の水の話は伝わってきた話として扱います。
『송고승전』 권4 「의상전」 shidianguji.com · 『임간록』 권상("夜宿冢間 渴甚 引手掬於穴中 … 骷髏也") ウィキソース · 연수 『종경록』(961) 권11(CBETA T2016, 48권 477a) buddhism.lib.ntu.edu.tw